秋田へ引っ越ししました。秋田市仁別にてスタジオ“nesta”整備中。 陶芸家田村一の日常、夢想、備忘録などなど.文章を書くのが苦手な作者のための練習帳.


by tebokehandmade

「リビルド以前の益子」その1

漸く書けそうな気がします。長いので何度かに分けて。


「リビルド以前の益子」



1.当日

3/11、ちょうど個展を目の前にしていた自分は、仕事場で釉薬をかけていました。
その週末からの展示のためには11日中に窯に火を点けねばならず、手伝いの若い子とふたり、いそいそと作業を進めていました。外にいる彼に足りなくなった釉薬を作ることをお願いして、自分はいつもの轆轤の前。そのとき揺れが始まりました。2日前にも割と大きな揺れがあったので、今度も程なくおさまるだろうと、手は止めず作業を継続。しかし揺れは一向に止む気配をみせず、それどころか大きくなりそうな気配。
外から彼の「ヤバいすよ」の声に促され仕事場の外に出ると、揺れは一層激しくなり、仕事場の下屋に乱雑においてあった古い作品がボロボロと落ちていきます。
外には自分たちの他、仕事場を共用している原形作りのおばちゃんたち。
波打つ地面となかなか収まらない揺れに、ふと83年の日本海中部地震のことを思い出しました。

それでもなんとか揺れがおさまり、仕事場に入ると、轆轤前にはラジカセと大量のCDと素焼きした皿が雪崩をうったように散乱してます。せっかく薬をかけたモノも何枚も割れています。



当然、電話もダメ、停電してるのでどこが震源でどこがどれだけの被害なのかまるで見当がつかないまま、おばちゃんたちと仕事場の大家さんと参ったね、こりゃと話してました。

手伝いの彼は古くから続く益子の窯元の息子。自分の家が気になるということですぐに帰し、自分は無事な素焼きを外に出し、なんとか作業を続けることに。
twitterは更新はできないけど、tweetできたのでひとまず自分の無事だけ呟いて、作業できるくらい片付けて、停電でどうやったら窯を焚くかとか、運送間に合うかとかそんなことを考えてました。そのくらい焦っていたか、現実逃避してたのですね、きっと。
程なくして手伝いの彼が戻って来ました。震源は東北、ひどい津波が何度も押し寄せていること。完全に東日本の機能が麻痺してるということ。彼の家にある益子でいちばん古い登窯もほかの2つの窯も崩れたことなど聞きました。


この瞬間、自分は被災者になりました。


独り身の自分はそれまではなんとかいつもの日常を繋ぎ止めようと必死だったんだと思います。
さらに震源が東北地方と聞いて、自分の心が粟立ちました。東北には家族、友人がたくさんいます。なにより、自分はこの夏に秋田へ戻ることにしていたからです。

もう夜に窯を焚くという気力もどこかに吹っ飛び、ひとまず手伝いの彼の家へ。
そこには無残に崩れた窯がありました。この仕事をしていてこの光景を見て何も感じないわけがありません。

そこには何人かの同業者がいて、益子内での被害をいろいろ聞くことができました。どうも北の地域の揺れがひどかったらしい。地割もいたるところで起きてる。参考館が大変らしい。大谷石の塀がバタバタ倒れてる。蒔の窯はほぼどこも崩れた。ガスや灯油の窯も崩れたり煙突が折れてみんな直ぐには窯を焚けないんじゃないか。仕事辞めちゃうのもでてくるんじゃないか。話はどんどん悲痛になっていきます。それに較べたら自分の仕事場はまるで被害がないと。だってしばらくは仕事できると思ってたくらいだから。
唯一の救いは彼のお父さんが揺れの収まった直後、粘土を買いに組合に走ったということ。逞しさに救われました。

このくらいになるとなんとか広島の弟に連絡がつき、震源が福島沖、マグニチュード8.8(のちに9に変更)太平洋岸へ断続的に津波が押し寄せており、仙台空港も冠水。被害の全容も桁違いの地震と知ることに。

さすがにくたびれたので、家に戻ろうとすると、途中の道路が液状化で陥没。クルマで通れないので、役場にクルマを置いて徒歩で帰ることになりました。我が家は田んぼに囲まれた農道の中にあります。うちの周りは舗装部分の方が少ないくらい道が崩れ落ち塀も倒れてました。この辺も大分揺れたようです。

我が家は瓦が落ち、アンテナも倒れて、閉めていたはずの窓がすべて開いてました。家の中に入ると、テレビかすっ飛び、障子が斜めに裂け、本棚からすべての本が飛び出すという有様。
食器棚からもほぼすべての器が外に放りだされて、半分以上が割てしまってます。ずっと集めていた大事に使っていた愛着のある器も大分割れました。捨てるのも忍びず、段ボールにその破片を纏めていると、自分に対して妙な怒りと虚無感が湧いてきました。
ともかくなんとなく片付けて、その日の食糧を調達しに外に。不謹慎にもビールを飲みたかったので、歩いて停電で真っ暗なコンビニへ行って、ビールとパン。家に戻ると何人か友人から電話。その日は家に集まることになりました。道路が大変なので歩きで来てと告げ、うちで暫くぼんやりしてるとお酒とカラスミと玄米というおよそこの状況にはシュールすぎる組み合わせを手にした友人が現れ、懐中電灯でカラスミを肴にお酒。
今思い返すとなんとなくお互い探り合いながら、必死にとりとめのない会話をしてたような気がします。自分はほかのふたりより早く就寝。次の朝には空いた一升瓶が炬燵の上にのっかってました。





2.西へ

次の日、明るくなってみると、我が家の被害が想像以上だったことがわかりました。屋根の瓦が大分落ち、サッシがきっちり閉まりません。風呂のタイルもだいぶ割れ、なによりブロックで組んだ塀はかろうじて芯でもってるだけ、手で押すとぐらぐらします。大家さんが来てくれて、午前中は屋根にビニールシートを被せる作業。
建築関係の仕事をしている大家さんから聞くと、どうも復旧には3年はかかるんじゃないかということでした。思わず溜め息。
とりあえず家の方は引越しするので、応急処置で済ますことに。

気にかかるのはこの時期、自分は個展も含め、東京でひとつ、大阪でふたつ、都合3つの展示会を抱えていたこと。
しかもどの搬入も目前に迫っていました。
状況としては電車も東北道も不通。送っても普通に届くかどうかまったく分からないということ。
なによりこの益子の状況が伝わっているかどうかまったく分からないことが不安でした。
大阪の個展は窯が焚けるかどうかまったくわからなかったので、延期にすることを決め、程なく他のふたつのグループ展は開催することが分かりました。

そこでギャラリーに電話で作品がきちんと届くかどうか分からないということ。益子の被害の様子を話すと、電話越しの驚きの声。そのころ当然、被害報道は東北に集中していたようで、北関東の益子は少し揺れたくらいの認識だったのでしょう。
自分なりに益子のことを説明すると、たかだか東京から100キロ程度北上したこの町の状況にみな絶句してました。

夕方個展をやるはずだった大阪のgrafの服部さんから電話がありました。
自分が秋田に戻ることを知ってたのもあり「東北のモノづくりの支援せんと」といったことでしたが、そこでも益子の状況を伝えるとやはり驚いたようで、もっと益子のことを知りたがっている様子。

ともかくこれは今伝えないとヤバいと妙な使命感が湧き上がります。
丁度東京、大阪とグループ展は続いてます。東京の展示会では3月15日にオープニングレセプション。人もたくさん集まるはず。


ともかく西へ行くことを決めました。


written by tebokehand



hajime tamura
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by tebokehandmade | 2011-07-18 02:32